医者を辞めたくなったことが2回あります。
1回目は、療養病院で意識なく延命されている患者さん達が病棟を埋めている現実を見たとき。
それまで総合病院で胃瘻造設に精を出していた僕は、何も知らず得意げに自分の技術だけを追い求めていた自分が本当に恥ずかしくなりました。
当時「医療崩壊後」の夕張市で「住民に近い地域医療」を実践されていた村上先生に頼み込んで夕張市立診療所に勤務したのは、そうした「自分への負い目」もあってのことでした。
その後、夕張で勤務しながら東大大学院H-PACで夕張の医療崩壊前後のデータを集め分析していたときです。分析から、医療崩壊を堺に夕張市の高齢者医療費が低下していることが分かりました。
僕は興奮しました。医療技術の進歩や高齢化の進展に伴い世界各国で医療費の上昇に歯止めが効かないと言われるなか、夕張市民の「高齢者一人あたりの診療費」は減少したのですから!これはすごいことだ!と興奮したのです。
ところが僕はここで2回目のショックを経験します。この夕張の医療費減少についてメーリングリストなどで識者に意見を求めたところ、こちらのグラフを提示され、「病床が減れば医療費が経るのは当たり前だ」と言われたのです。
それまでの僕は純粋に、「病人がいるから医療がある」と信じていました。しかしこのグラフを見れば、「病床がある分だけ病人が作られる」という、ある意味極論に達してしまいます。
高知県民は滋賀県民より2倍も病気になるのでしょうか(そんはずはない)。でも事実として高知県民は滋賀県民より県民1人あたり入院費を約2倍使っています。そしてそれは病床数に比例している…(平均寿命や健康寿命には比例しない)。
調べてみれば、日本の病床数は世界一。日本で最も病床が少ない神奈川県でさえ、アメリカ・イギリスの2倍の病床を持っているのです。
CTもMRIも世界一持っていて、さらに外来受診数も欧米先進諸国の約2倍で世界第2位…。
医師不足?それって供給過多なだけなんじゃない?その時、「医師誘発需要」「医療市場の失敗」という言葉を初めて知りました。
「医療市場の失敗」はこちら
日本の医療は一体何のためにあるのか…。僕は自分が医師であることが恥ずかしなってしまいました。そして医師を辞めたくなりました。
それ以来僕は医師としての仕事をある程度セーブするようになりました。国の貴重な財源から報酬を得ることに罪悪感を感じ始めてしまったのです。
今は、少しでも国民医療に役立てる仕事を模索しながら、診療半分・診療以外半分(行政の仕事・原稿執筆・講演など)くらいで仕事をしています。
でも僕は決して日本の医療を悲観しているわけではありません。
なぜなら僕は、夕張をはじめとした「医療資源の乏しい離島・僻地」でも、住民同士が支え合いながら元気に生活していることを知ることが出来たからです。
そして、そうした住民の近くで、「高度な病院医療」とは別に「生活を支える医療」を提供することの重要性を知ることが出来たからです。
僕は、夕張で医療費が減った要因は「病床が減ったから」にもまして「住民の近くで生活を支える医療」が整備されたからだと思っています。夕張では病床が激減した代わりに、村上智彦先生・永森克志先生のご尽力によって「生活を支える医療・介護」が整備されたのです。だからこそ、本人・ご家族の意志を尊重した「延命処置ありきではない」、本当の笑顔を生み出せる医療が実現できたのだと思います。
そういう意味では、「住民の近くで生活を支える医療」は今後訪れる高齢化社会にとっての救世主になりる存在だと思います。
いま、日本では「在宅医療」をはじめ、住民の生活に近い医療の姿が各地で模索されています。地域包括ケアシステムは、この流れのメインストリームです。
これは宇沢弘文先生が説かれた「社会的共通資本」としての医療により近づくものだと思います。
宇沢先生の「社会的共通資本」はこちら
僕は、この「地域包括ケアシステム」の流れの中で、日本の将来ために、子どもたちの明るい未来のために、少しでもお役に立てる仕事が出来ることを目指して、今後も頑張っていきたいと思っています。